〈日本の皆さん、こんにちは。僕の名前はムハンマド、ドーハに住む17歳の高校生です。日本のアニメが大好きで、お気に入りは『名探偵コナン』。放送があるとすぐ録画して、月5回は見ています。趣味が高じて1年前から日本語を学び始めました。
ところで今度、カタールが日本と大事な試合をするそうですね。そこで先日、日本語教室のアズマ先生からお願いをされました。
「日本から記者が取材に来るから、カタールのことをいろいろと教えてあげてよ」
そういうことなら、お任せください。
数日後、記者さんに会うと身長193cm、体重130kgという僕の巨体に驚いていました。以前は160kgもあったんです。
ちなみに僕は、10歳のころから砲丸投げをしています。1年前には国の代表としてアラブの大会に出ました。優勝したら政府から家と車をもらえたのですが、8位と負けてしまいました。シリア人がとても強かったのです。
勝つと家や車がもらえるのは、サッカーも同じです。親戚のサッカー選手が、いつだったか教えてくれました。スターズリーグのカタール人選手は月に750万円くらいもらっていて、家や車は政府から支給されます。外国人選手は、もっともらっているそうです。代表選手は大事な試合に勝つと、報酬が2000万円くらい。家や車?― もちろんです。
「本当?― 1試合勝っただけで?」
記者さんが驚きました。どうして驚くのか、僕にはそれが不思議です。僕たちカタール人は結婚すると政府から家をもらいます。電気、ガスは、もちろんただ。え?― 日本人はお金を払っているのですか?― 世界は広いですねえ。その日、僕らは週末にスターズリーグを観に行く約束をして別れました〉
1993年、日本サッカー界が「ドーハの悲劇」に見舞われたとき、その舞台となったカタールの首都は見栄えのしない湾岸の小さな都市に過ぎなかった。
しかしいま、カタールは空前の好景気に沸き立っている。秋田県と変わらない面積の小国が、世界3位という天然ガスの埋蔵量を誇っているのだ。そして建設ラッシュが始まった。ウェストベイ地区には高層ビルが林立し、雨後の筍のようにビルが建ち続けている。巨大な商業施設も、次から次へとオープンした。
イスラムの戒律の厳しさは変わらずとも、カタール人は優雅な暮らしを謳歌するようになった。金庫では札束が「使ってくれ」と啜り泣いているらしい。
カタール人には「奮発する」という概念がない。買い物に出かけて「新製品」の札を見つけると、サイズや規格を気にせず、まずは買う。道路ではベンツやBMWの事故車両を見かけることも珍しくない。命はともかく、ぶつけたら買い換えればいいだけのことだ。
この国の主要ポストは代々首長を輩出してきたアルサーニー家の一族に占められ、その気分や思いつきで物事が進められる。
市内ではカタール第一号のバイパスが造られていて、工事渋滞が人々を悩ませていた。辺りには土地が余っていて、またぐものは何もない。噂によると、とある有力者が海外で目撃したバイパスの格好よさに魅了され、「我が国にも是非」と言い出したらしい。
カタール人の浮世離れした暮らしを支えるのは、海底から湧き出す石油やガス、そして外国からの出稼ぎ労働者である。カタールには82万人が暮らしており、外国からの出稼ぎ労働者が半数以上を占める。インド人とパキスタン人が多く、イラン人、フィリピン人と続く。スーダン人やソマリア人も少なくない。
そんな豊かなカタールは、いま「スポーツ立国」を目指している。現に、スポーツ界における存在感を急速に高めている。
2006年にアジア大会を開催し、’11年に行なわれるアジアカップ招致も決まった。1年前、東南アジアの4カ国が共催した大会を、カタールは単独で開催する能力を持つ。落選したが、’16年の五輪開催地にも立候補していた。すべては国際的な地位を高め、国としての自尊心を満たすためだ。
スポーツ担当記者が次のように語った。
「ドバイが経済、アブダビが文化なら、ドーハはスポーツと教育で勝負します。特にサッカーには力を入れています」
政府は年間200億円をサッカーに投じているとされるが、真偽は定かではない。
「税金がないので不透明ですが、もっと多いでしょう。すべては王族次第なのです」
この国にいると、金銭感覚が麻痺してくる。
政治や経済と同様にカタールのサッカー界は、アルサーニー家によって支配されている。王子のひとりがサッカー協会の最高権力者であり、彼はお気に入りのチームや選手を明かしたことがない。影響力が、あまりにも大きいからだ。王子は週に5日、ウェストベイのサッカー協会で執務をし、出勤中は高層ビルのエスカレーター1基が王子専用となる。
「金なら、いくらでもある」
多くの関係者が語るように、この国では莫大な資金が環境整備のために費やされている。
例えば、日本戦が行なわれたアルサード・スタジアムは、かの有名なオールド・トラフォードを模しており、最新機能を装備する。
ゴール裏の壁には白と黒のサッカーボール型の装飾が施されているが、単なる装飾ではない。実は、ボールから冷気が吹き出すのだ。また、すべての座席の下に小さな穴がふたつあり、これも冷房の役目を果たす。40度を超える、真夏の酷暑を和らげるためだ。
このシステムは試行段階にあり、広告看板が取り付けられるとボールの大半が隠れ、ピッチに風が届かなくなるという弱点がある。
外国人関係者が苦笑していた。
「照明が基準以下で、FIFAから改善を求められています。この国のお偉方は命令されるのが嫌で、勝手に物事を進めたがる」
送風装置に飽き足らず、カタール人は快適な環境を生み出そうと前代未聞のスタジアムを考え出した。「地下スタジアム構想」だ。
「ラップトップのコンピュータのように、地面が開閉するのです。実はドーハ郊外の工業地区に、ほぼ出来上がっています。将来的には、スターズリーグの会場すべてが地下方式に切り替わるかもしれません」
また、4年前には日本の「Jヴィレッジ」に相当するトレーニング施設「アスパイア」が、アジア大会メイン会場の敷地に造られた。この地では世界中から招かれた指導者が、若年層を鍛えている。敷地には学校が併設され、250人の選抜選手が生活しているという。
環境は申し分ない。だが重要なのは、そこでプレーする選手の質である。
「我々の夢は、ブラジルやイタリアに比肩するレベルに到達することです」
協会関係者が語った理想は、果たして実現するのだろうか。
だれもが羨む財力を持つカタールだが、言い方を変えると金しかない。ブラジルが王国であり続けていられるのは、多くの人々がボールを蹴り、多くの人々がサッカーを見、多くの人々がサッカーを語り尽くしているからだ。カタールは違う。少ない人々がプレーし、少ない人々がサッカーを見、少ない人々しかサッカーを語らない。人口が少ない上に、サッカーが文化になっていない。
クラブに通う子どもはいても、街中の空き地に草サッカーの風景はない。歓声が聞こえてきても、クリケットに興じるインド人を見る羽目になるだろう。スターズリーグを観に行くと広大な空席を目撃することになる。
10チームで構成されるスターズリーグでは5年ほど前、バティストゥータやイエロといった大物が余生を過ごしていた。大枚をはたいてワールドクラスを引き抜き、世界の目をカタールに向けさせることが狙いだった。
そのベテランが役目を終え、近年はワールドクラス未満でも働き盛りの男たちが集まっている。エメルソンやアラウージョ、マグノ・アウベスといったJリーグのブラジル勢がいて、スイス代表のハカン・ヤキンもやって来た。ちなみにエメルソンはクラブの上層部と揉めて、2カ月練習にも参加せず、とうとうギニアの怪人フェインドゥーノに、10番を奪われてしまった。
スターズリーグには、Jリーグを経験した監督が実に4人もいる。初期のJリーグで清水エスパルスやヴェルディ川崎を率いた、アルサードのレオン監督は、
「スターズリーグは昔のJリーグに似ている。10年後、いまのJリーグのようになるかもしれない」
希望的観測を口にしたが、鹿島アントラーズにいたアウトゥオリは否定的だった。観客の少なさを、自虐的に笑い飛ばしていた。
「僕のチーム、アルラヤンはスターズリーグでもいちばん人気があるよ。なにしろ、ミニバン1台分もファンが集まるんだから。選手には重圧もないし、情熱もない」
アルアラビのオランダ人コーチが、カタールの限界をひと言で言い表わした。
「カタール人は、みんな金持ち。ブラジル人のように上手くならなきゃいけない理由が、どこにもない」
ロナウジーニョやルーニーが裕福な家庭に生まれていたら、いまの彼らはなかっただろう。貧しさは天才を育てる揺り篭であり、その貧しさがカタールにはない。
しかし、あきらめるのは早い。自国人がだめなら、外国人に目を向ければいい。
この国のスポーツ界には、海外から実力者を引き抜いて競争力を高めてきた実績がある。アジア大会では、ケニアからの帰化選手がマラソンや中長距離種目で優勝。男子バスケットボールでは、セネガル人を多数擁するチームをカタール代表として送り出した。
サッカーも例外ではないが、こちらはFIFAという障害がある。W杯3次予選のイラク戦ではエメルソンが起用されたが、ブラジル時代、ユース代表でプレーした経歴が引っかかり、帰化を認められなかった。FIFAの帰化規約は、カタールを取り締まるために存在するかのようだ。
そのことについて尋ねると、協会関係者は悪びれることなくいった。
「今後は規定の範囲内で補強をします。我が国は人口が少ないので、出稼ぎ移民の子をカタール人と見なすことになるでしょう」
すでにカタール代表は、人種の坩堝と化している。ブラジル人やウルグアイ人、セネガル人の存在は知られているが、ソマリア人やスーダン人も少なくないらしい。
2部リーグでプレーする19歳のアセッドは8年前、戦火と飢餓に見舞われた祖国ソマリアを抜け出し、ドーハに渡ってきた。
「ソマリアに比べたら、カタールは天国です。国を出たくても出られない人が多い中、僕はドーハに来られた。とても幸運でした」
月給は15万円。住居費や食費はチーム持ちなので、多くを貯金できる。もっとほしいが、決して悪くない。
「チャンスをくれたこの国に感謝しています。将来はW杯に出たい。ソマリアでは未来を描けないので、カタール代表でプレーする方が現実的ですね。パスポート?― 簡単に取れますよ。長い間、ドーハに住んでいますから」
カタール代表が、いつかブラジルやイタリアを倒す日が来るとしたら……。歓喜の輪の中には、アセッドのような男がいるはずだ。勝利に飢えた異邦人が。
週末、ムハンマドとアズマ先生を誘い、アルガラファとアルホールの一戦を観に行った。入場料は300円。観衆は700人くらいいて、想像していたより多かった。
熱のないゲームだった。見境のないフェイントを繰り返すアフリカ人。延々と続く単調なショートパス。7年前に見た、チュニジアリーグを思い出した。
アルガラファには、アラウージョがいた。J1得点王に輝いたガンバ大阪のストライカーは、カタールでも昨年得点王の座を射止めたという。背番号10。あれだ、あれがアラウージョだ。いや、確信が持てなくなった。生気のない顔つきに不精髭、そして重いステップ。アラウージョという名の、別のブラジル人だろうか……。
試合に飽きた記者はやがて、退屈なはずの観客席の風景に目を奪われることになった。
アルガラファの応援席には、青と黄のけったいな半被を着込んだ黒人の集団がいた。浮き出た頬骨。落ち窪んだ目。無表情で、太鼓に合わせて手を叩いている。
ムハンマドが教えてくれた。
「出稼ぎのスーダン人です。1試合応援すると1500円もらえるそうです」
弱々しく、揃わない手拍子。世界一無気力なサポーターを、目つきの悪い鷲鼻のイエメン人が偉そうに仕切っていた。
インド人の売り子がイエメン人から小銭をもらい、紙吹雪の束をスーダン人の中に投げ入れていた。一束60円のその紙吹雪をスーダン人が無気力に撒き散らす。上部席には恰幅のいい白装束のカタール人が、ゆったりと座っていた。世界の縮図を見たような気がした。
ハーフタイムになって、電光掲示板に3桁の数字が10個並んだ。「ファンズ・ウィン」と呼ばれるクジの当選番号だった。チケットに番号が書かれていて、10名に7万5000円相当の商品券が当たるという。
観客が少ないので「もしや!?」と思い、チケットを確かめる。目の色を変えていたのは記者とアズマ先生、要するに日本人だけであった(スーダン人はチケットを買っていない)。
残念ながら、商品券は当たらなかった。取材者としての本分を取り戻し、カタールサッカーの未来に思いを馳せる。この国がブラジルに追いつく?― まさか──。
「僕、チケットを失くしてしまいました。あははは……」
ムハンマドの暢気な笑い声が、頭上から降ってきた。
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